2007年10月11日

Re:Re:仏身観2 相としての三身 報身はロゴス

> 報身は、1(応身)が自からの本然に帰した絶対の−であり、
> また、法身(0)が有始無終の位(−)に立つもの、
> ということだと思います。
>
> > これらの内容を読むと霊人体のことをさしているような気がします。
>
> 霊人体とはちょっと違うと思います。
> 霊人体は無形ですが、被造物であり、存在物です。
> しかし、報身は、被造物・存在物を指しているとは限りません。


付け加えれば、報身は、統一思想でいうところのロゴスに近いように思います。

原理講論 第七章 キリスト論 第四節 重生論と三位一体論

(2) ロゴスの二性性相から見たイエスと聖霊
ロゴスという言葉はギリシャ語で、み言、あるいは理法という意味をもっている。
ヨハネ福音書一章1節以下を見ると、ロゴスは神の対象で、神と授受をなすような関係の位置をとっているという意味のことが書かれている。
ところで、ロゴスの主体である神が、二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない。
もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物(ヨハネ一・3)も、二性性相になっているはずがない。
このようなロゴスの二性性相が、神の形象的な実体対象として分立されたのが、アダムとエバであった(前編第一章第一節(一))。





ラベル:仏身観
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2007年10月10日

Re:仏身観2 相としての三身

[Re:仏身観2]より続き(報身について)

> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> 仏陀の仏陀たるは、それが1を超える−たることにある。
> その−は、0と1との媒介極である故、向上的には、1が自からの本然に帰した絶対の−であるし、向下的には、無始無終なる空・涅槃(0)が有始無終の位(−)に立つものでなくてはならぬ。
> かつそれは色身も威力も寿命もすべて無限なる常住の生命であり、応身に対しては因たるものでなくてはならぬ。
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
>
> 仏陀は、肉体の原因となるものであるべきで永遠の存在であるということか?


報身は、1(応身)が自からの本然に帰した絶対の−であり、
また、法身(0)が有始無終の位(−)に立つもの、
ということだと思います。


> これらの内容を読むと霊人体のことをさしているような気がします。


霊人体とはちょっと違うと思います。
霊人体は無形ですが、被造物であり、存在物です。
しかし、報身は、被造物・存在物を指しているとは限りません。


> 報身とは人格の本然を実現しようと志す修養人格でありとあるので、成長するものと考えられ「色身も威力も寿命もすべて無限なる常住の生命」とあるのでここでは霊人体を示すような気がします。
>
> そして、法身は、肉体および霊人体の原因およびその到達点という意味でここでは使われている気がします。
>
> ここでの説明がすべての宗派に当てはまるわけではないのでしょうが、
> 仏陀の原因であり到達点である法身、
> そこに行きつける仏陀の霊人体である報身、
> 地上で活動する仮の姿である肉体である応身と、
> ここでは解釈していると思います。
>
>
> 仏身論に関しては解決したと思ったのですが、この資料を読むと再び疑問がわいてきたので勝手にいろいろ書いてしまいましたが、
> 持っている資料において思う意見をあげて意見を交わすことにより疑問点が解決すると思いましたので、思われるところを書きました。
> 仏身論は難しいですね。


ほんとに難しいですね。
いかなる存在かを捉えているのではなく、相を問題としているので、
インフレーション理論の相転移に通じる観点があるのを感じます。

また、ここが、存在としての観点をあいまいにもしてしまっているのでしょうね。



ラベル:仏身観
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2007年10月09日

Re:仏身観2

> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> ●報身
>
> 「報身」という漢訳は「果報身」の義である。上述の化身は願力によって仏陀が迹を垂れたものであるから、これを仏陀の真身とすることはできない。
>
> (「仏教哲理」から仏身観について引用)
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
>
> ここから読み取れることは「上述の化身」と書いてあるので応身のことだと思いますが、応身は仏陀の仮の姿であり、真の体ではないということだと思います。



そうですね。
「業が尽き輪廻を脱した境地が涅槃であり真如であるので、
仏陀がこの世に出でたのは、業の結果であるとは考へられない。」
ので、
「仏(釈尊)の出世(=未生)は業力所生でなくて任意出生であり、衆生済度の願力による」
ものであるし、
「有始有終の相(1の位)を以て衆生界に示願せる「妙色身」であり、応身と言う」

したがって、応身は仮の姿であり、無始無終の真なる姿ではないということですね。

また、ここでは天使ということは考えていないと思います。
絶対者と天使と人間という「異なる存在」としての3者を考えているのではなく、
法身と応身、この2極の中間に位置する相としての報身を考えているので、
同一の存在の異なる相を考えているのだと思います。



ラベル:仏身観
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2007年10月08日

仏身観3

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●法身

「法身」は自覚の第一極(0の位)に立てられた仏身である。
仏身といっても、その「身」はこの場合、可視的な身体ではなく、報身と応身との本体乃至は本源である。
普遍的な理を0とし、一々の1を照らす智を−とするならば、法身は理にあたり、報身は智にあたる。
法身は理仏であって、それが即ち真の仏陀であり、本尊である。それは真如や涅槃そのものであるが、それの観照点を特に究竟法身として立てるのである。
報身はその観照の作きとして、理が発現する智であり、理によって説法する法性生身であり、それが衆生に応じて身を現ずる上からは、さらに応身たるのである。

法身は元より空であるから、無相であり、無相なるが故によく一切の相を取る。
報身は法身の等流身であり、つまりは法身たるものである。
智として説法する仏陀も、はたまた法蔵菩薩と名乗り不可思議の四十八願を起し顕はし、成仏して一切衆生を摂取する阿弥陀仏も、理が智として、即ち真が実として、作き出した法身にほかならぬから、親鸞はこれを「方便法身」と呼んだ。

「仏について二種の法身まします。一には法性法身と申す。二には方便法身と申す。法性法身と申すは、色もなし形もましまさず。然れば心もおよばず語もたえたり、この一如より形をあらはし方便法身と申す」(『唯心鈔文意』第四段)

(「仏教哲理」から仏身観について引用)
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これを読む限り、法身は究極的には神であるが、悟りを開いて霊界に行った人間や天使長クラスの天使も含まれている可能性を感じます。


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仏の三身説は、なにも現実から浮き上がった空理ではなく、現実から昇華せる真実の理説なのである。これを再び現実に還元して畳々の「事」に引き当てるならば、法身とは吾々の人格の本来であり、人間の道理である。
報身とは人格の本然を実現しようと志す修養人格であり、応身とは現世活動をなす吾々の現実人格である。

その応身が同時に報身たり、又つまりは法身たるのが、人間の意義となるであろう。
聖徳太子が『勝鬘経蔵疏』の「一乗章」のなかで
「一乗の道のみ乃ち法身を得と説く。法身の上には更に一乗の法を説くことなし。然れば則ち法宝の極はただ法身に在り」
と説かれるとき、法身は各人が正しい修道によって到達し得る至極の境地として、吾々の実践に引き下ろされている。
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ラベル:仏身観
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2007年10月07日

仏身観2

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●報身

「報身」という漢訳は「果報身」の義である。上述の化身は願力によって仏陀が迹を垂れたものであるから、これを仏陀の真身とすることはできない。

(「仏教哲理」から仏身観について引用)
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ここから読み取れることは「上述の化身」と書いてあるので応身のことだと思いますが、応身は仏陀の仮の姿であり、真の体ではないということだと思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仏陀の仏陀たるは、それが1を超える−たることにある。
その−は、0と1との媒介極である故、向上的には、1が自からの本然に帰した絶対の−であるし、向下的には、無始無終なる空・涅槃(0)が有始無終の位(−)に立つものでなくてはならぬ。
かつそれは色身も威力も寿命もすべて無限なる常住の生命であり、応身に対しては因たるものでなくてはならぬ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


仏陀は、肉体の原因となるものであるべきで永遠の存在であるということか?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここから『勝鬘経』には報身を「真身」と呼び、聖徳太子はそれを釈して、如来の「色無尽」「智憑無尽」とされた。
これを色というのは、色に応ずる本であるからである。

従って報身は、向上門的には、智慧と功徳とを完成するためのあらゆる苦行の果報であり、向下門的には、人生の所欲の受用によって一切の1に示現する−であることとなる。

この向下門的見地では報身は「受用身」とも訳され、それが実は原語sambhoga‐kayaの原義でもあるのである。『大乗荘厳経論』菩提品に、真如法界の起る義として仏の三身を記述して曰く、「受用身は復だ是れ化身の因、所収の受用によって一切示現するが故に」上の向上門的解釈(報身)においては、応身の場合と異なり、仏陀の因業が予想されるし、向下門的解釈(受用身)においては、真如の等流身として、応身の場合と同じく因業を超越せるものとなる。
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これらの内容を読むと霊人体のことをさしているような気がします。


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しかも報身は即ち受用身である故、向上と向下との反対の方向が一致している、故に報身は法身と応身との媒介極となるわけである。

報身はかく自覚の第二極に立つ故、「行信証」の「信」に当り、信仰の対象たるべき仏身となる。

そのような仏身の代表的なるものが浄土門の阿弥陀であるから、阿弥陀仏を化身とした従来の考えを唐の善導大師(六八一寂)が破って、これを受用身(報身)と決定し、「是報非化」の説を立てたのは、十分いわれのあることであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


報身とは人格の本然を実現しようと志す修養人格でありとあるので、成長するものと考えられ「色身も威力も寿命もすべて無限なる常住の生命」とあるのでここでは霊人体を示すような気がします。

そして、法身は、肉体および霊人体の原因およびその到達点という意味でここでは使われている気がします。

ここでの説明がすべての宗派に当てはまるわけではないのでしょうが、
仏陀の原因であり到達点である法身、
そこに行きつける仏陀の霊人体である報身、
地上で活動する仮の姿である肉体である応身と、
ここでは解釈していると思います。


仏身論に関しては解決したと思ったのですが、この資料を読むと再び疑問がわいてきたので勝手にいろいろ書いてしまいましたが、
持っている資料において思う意見をあげて意見を交わすことにより疑問点が解決すると思いましたので、思われるところを書きました。
仏身論は難しいですね。



ラベル:仏身観
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2007年10月05日

仏身観

「仏教哲理」から仏身観について引用し感想を挿入いたします。
「仏教哲理」は14年くらい前に買ったものですが、正直に言いますとところどころ読んだものの全体に渡ってはそれほどじっくりは読んでいませんでした。
読み返すといろいろ発見があります。
著者の佐藤通次先生は皇学館大学の学長であったようですね。調べてみると辞書やドイツ語関係の翻訳書や哲学書など様々出版された方のようです。
私はこの本は古本屋で内容を見て原理的な側面もあって難しいけどおもしろいと思ったので購入したものです。


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●応身
「応身」とは、衆生済度のためにこの世に権に姿を現はした歴史的な仏身である。それは衆生に応じて現じたものであるから、これを応身という。
また権に化したる身であるから変化身また化身ともいう。

インドには古来「業」という思想があって、善悪いずれの行為でも、ある種の力を心に胎し、それが報いを引いて生死の世界における次の生存形体の因となるという「輪廻」又は「流転」(その語根は「流れる」意)が考えられ、仏教もその考えを採り入れた。

しかるに、業が尽き輪廻を脱した境地が涅槃であり真如であり、
仏陀はこれ「如来」としてその真如から来生せる者である故、仏陀がこの世に出でたのは、業の結果であるとは考へられない。

ここから仏の出世(=未生)は業力所生でなくて任意出生であり、衆生済度の願力による「権化」(また「垂迹」)、であるという考えが生じた。

すなはち、仏陀は願力によって、衆生に応じて変化し、はじめ菩薩として出生し、修行し、成道し、仏陀となって教化し、教縁の布置を完了すると共に八十歳で入滅したというのである。
それは仏陀を「有始有終」の相(1の位)を以て衆生界に示願せる「妙色身」とするのであり、それを応身と言うのである。
・・・・・・・・・・・・・・


ここでは如来は救世主としての意味で使われているが、どうやら「神から来て真理を告げるもの」という意味であるように思われます。
ですから、これは救世主という意味と天使の意味と両方をもっていると考えるのが正確ではないかと思います。

また、応身に対してはこの説明ではこの世で悟りを開き真理を説いた人間を意味するようです。



ラベル:仏身観
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2007年10月04日

Re:Re:愛と自己認識 相補性と相似性

> > 神がSee Myselfなる対象、いなむしろ対者を求め、それを自らの内から与えるとき、神はそれと絶対してI See Myselfなる自覚式を充足せしめ、自覚すなわち真実に達するのである

> ここで、創造とは何かということが問題となる。
> 神様は単に自己の一部を相対化したのでなく、自己の要素の一部を抽出して与え授受することによって別存在を相対的世界に創造したと考えられます。
> この点からあくまでも被造物なのです。


統一思想要綱では自己の性相と形状を相対的に感じるという内容を相似性と表現しています。

喜びは深いところにこの相似性がなければ生じ得ないと書いてあります。

芸術論P.420の相補性では

「神の二性性相に分立された男女の一体化による喜び
・・潜在意識(性相)の中に不足した部分を補おうとする内容があるのでその実体を通じて喜びを感じる。
神の個別相を受けついだ個性真理体であるので、個別相を分け合い、互いに授受することを通じて感じる喜びがある。」

そして、これは本来神において1つであったものが個別相において互いに授受して合一しより完全なものとなるからであるとしています。


このように、根本的な相似性は神様から来ており、人間や万物の性相のなかにはもともと神の二性性相の調和性が宿っているので、そのような根底にある相似性によって喜びを得ることができるのであり、共通目的や相似性のような共通性のない単純な差異では、美は喜びは生じないし、そもそも相対的関係が成り立たず授受作用ができないであろう。

このようなことからも、神が愛と喜びの根幹に存在するということができるでしょう。



ラベル:愛と自己認識
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2007年10月03日

真如 すべてが創造本性をもつ

「真如 仏陀が悟った空の実相」より続き

「日本天合はさらに考察を深めて、現実における主格「我」をのみならず、われに所属する「我所」(対境)をも、かかる真実の内容として見直す。
同じく日本天合の著作に属する『枕双紙』は
「法界、皆真如なれば、仏にあらざるものなし。虎空に向いては、虚空すなわち仏なり。大地に向いては、大地すなわち仏なり」と説き、
さらに『法華経』方便品第二の「この法は法悦に住して、世間の祖常住なり」に関説して、
「世開祖常住というは、堅固不動なるを常住というにあらず。世間とは非常の般なり、差別の義なり、無常は無常ながら、常住を失はず。差別は差別ながら、常住を失はず」というごとき深旨を表現する。」


いささか、神から出たものは皆神であるという内容に近いが、原理的に見れば、すべてが創造本性をもち、神様の神性を表している、ということであろう。


「このような考へは、のちに道元禅師(一二〇〇 ― 一一五三)の主要思想となり、数々の珠玉の詞を生んだ。
「いわゆる世界は、十方みな仏世界なり。非仏世界いまだあらざるなり」(『正法眼蔵』古仏心)
「草木叢林の無常なる、すなわち仏性なり。人物身心の無常なる、これ仏性なり。国土山河の無常なる、これ仏性なるによりてなり」(『正法眼蔵』仏性)
 道元はさらに右の仏性の巻において『涅槃経』(第廿七師子吼菩薩品)の「一切衆生、悉有仏性(一切衆生悉く仏性有り)」を、敢へて「悉有は仏性なり」と読み換へ、
「仏性かならず悉有なり、悉有は仏性なるがゆえに」と釈し、「この山河大地みな仏性海なり」と言い切っている。
 右の仏性とは、真如を別の見地から言ったもので、「性」というも、法性(dharmata 法たること・法そのもの)というも、仏性と言うも同じである。性の訳語として用いられた漢字「性」は、偶然ではあるが、縁起の理法を如実に表現している。
すなはち字の扁は立心扁であって「心」の字の別体であり、旁は「生」であって「現起」の意味を示す。よって性は、生具の心、現起の本心、心の生命的発現を意味することなのである。」



ラベル:真如
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2007年10月02日

真如 仏陀が悟った空の実相

「真如 物の分別を超えた真の実相」より続き

「仏陀は右の空真如を覚り、それを携げて相対界に如来し、不空真如を行じたのである。仏陀は空真如を覚って正覚を得たのであるが、その正覚はこの段階ではまだ観念的な「始覚」にほかならなかった。正覚は覚他と覚行窮満の如来活動―すなわち真実行―においてはじめて「本覚」となるのである。」

仏陀は空(おそらくすべてが相対的な縁起の法から生成する)であるという空の実相を悟ったのであるが、そこにおいて縁起の法を正しく行ってその真理を証してこそ、観念的なものを超えた本当の悟りを得るのである。


「この本覚なる語はやはり『大乗起信論』に現われるものであるが、日本天合(いわゆる新天台)がこの語を重視して、上の「真実」の意味のものに深めた。
たとえば鎌倉初期ごろ成立したと考えられる『牛頭法門要纂』に「心性の本源は、凡聖一如にして、二如なし、これを本覚如来と名づく」と説いている。
人の脱生存が、翻されたる眼によって、真と一如なる実であることが見抜かれたのである。
これにより、凡夫が修業してのち始めて覚って仏になるという始覚の考えが乗り超えられ、人間存在が仏凡一体の真実として捉へられることになる。」

本来、仏と人は別れたものでなく一体であり、修行して一体となるものでないという理解であると思われる。
原理的な解釈で言えば人は誰でも創造本性を生まれつき持っているということであろうか。


「すなわち、真実は、現から真に進み真から実に到るというような過程において成立するのではなくて、現であるそのことの本然が、すでに実であり、それが真によって裏打ちされていると解せられるのである。
それは現実の本性を真実と見抜くことである。かく見抜くのは真(I See)の力用である。」

創造本性を見抜くことが真実の私を自覚するということであるという意味であろう。

(続く)



ラベル:真如
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2007年10月01日

真如 物の分別を超えた真の実相

「仏教哲理」から真如についての内容を引用し、その感想と原理的解釈を考えていこうと思います。ここでも如来という言葉が出てくるが、ここでの如来は名詞でなく、真理を証する活動というような意味で使われている。


「縁起が縁起の理法の如くに(如実に)展開するマコトのあり方を、サソスクリットでtathata (そのようであること)と呼び、漢訳で「如」と訳す。また「如々」とも真如ともいう。
自覚文章A(I See Myself)が即ち真如の境地である。それは能所の対峙見が否定せられて寂滅となった境地であることからは、空であり涅槃であるが、これを肯定的に言い表はして実相といい如といい、如を強めて真如ともいうのである。

「彼此の諸法、空を以て実とす。空はこれ諸価の実相なり。この実相の如きを如と称す。故に実相即ち如なり」(「摩阿止観』二)

 真如はまた般若(慧、仏心)と別ではなく、それが能所(主観・客観)の実体ありとする分別を越えるところからは「無分別性を以て居られる実相」であると言うことができる。
 I See Thisを開けばISeeとSee Thisとの対極となる。」


物の分別を超えた真の実相を真如ということがわかる。


『大乗起信論』では、真如を心真如と名づけ、それを開いて空真如と不空真如とする。前者は真空であり、後者は妙有(いはば実空)である。「真空―妙有(実空)」とは、本書の論理でいう「真―実」にほかならない。

対象である真空があり、主体である実空がある。本性相と本形状に相当するものを言わんとしているのだろう。



ラベル:真如
posted by pocs at 07:37| Comment(0) | 神様と天使と人間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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