2007年12月28日

Re:Re:八百万の神々を整理する本地垂迹

本地垂迹という概念は
相当、深いものかもしれませんね。
研究の余地がありそうです。

それでは、よろしくお願い申しあげます。

▽▽▽

神道の神仏人の合一の考え方は面白いものですが、
仏教が神、天使、人の区別が不明確である以上に、
神道は、神、天使、人、自然(万物)の区別が不明確であるので自然主義に陥り、果ては唯物思想に吸収されてしまう危険性を持っています。

仏教は密教において大日如来から展開する流れと大日如来の位置が明確になっていますが、
神道の隠身という考え方は、霊的働きとも見れますが、その実質的な存在位置が非常にわかりにくく隠身してお役目ごめんと去ってしまったがごとき印象を与えます。

大日如来は、曼荼羅において明確な位置と役割が大日如来から分け与えられたものであり、大日如来の知恵によってすべては仏を内在しているという思想が明確です。

ただ、前にも書きましたように創造をもう少し明確にしなければ堕落というものが理解できず、悪も大日如来から来たものと解釈せねばなりません。

理趣経にはそうではないと読み取れる内容が書いてはありますが・・。

神道においてはここら辺の整理をさらに明確にしていく必要があると思います。



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2007年12月27日

Re:八百万の神々を整理する本地垂迹

昨日紹介したホームページの一番下の「歌に戻る」をクリックすると、
天照大神を大日如来の垂迹とする歌が紹介されています。

深く入りて神路の奥を尋ぬれば
http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/ibaraki/640_hukakuirite.html

「深く入りて神路の奥を尋ぬれば
  又うへもなき峰の松風」

大日如来の本地垂迹のあとを思いつつ
神路山の奥深く入ると
この上もなく尊い
又微妙な神韻を伝える
峰の松風が吹くよ



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2007年12月26日

八百万の神々を整理する本地垂迹

絶対者なる神様を意味する真如あるいは大日如来。
一方、日本民族が篤く信じてきた八百万の神々。

この両者を、前者を主体とし、後者を対象として、整理したのが、
本地垂迹という古来からの考え方だったのかもしれませんね。

本地垂迹
http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/ibaraki/mm_honjisuijaku.html


S先生の論文には、本地垂迹説は、仏教が神道を配下に治めたものとして、
異議が唱えられております。

神道の統一原理的解明
http://pocs.info/gairon_sugiyama.pdf

先生がおっしゃるように、神道においては、
絶対者を天之御中主神と呼び、統一原理を神道に当てはめることも出来ます。


しかしながら、日本の神道は、もともと人間である天照大神を神として奉ってきましたので、この部分は整理する必要があります。

人間は人間であり、絶対者とは違いますので、
天照大神が人間であることは明確にして、
絶対者との結びつきを整理しておかなければなりません。

仏教においては絶対者のことを大日如来と呼び、
これは神道における天之御中主神のことなので、

天之御中主神と天照大神の関係を明確にすることと、
本地垂迹によって大日如来と天照大神の関係を明確にすることは、
等しいことと言えるかもしれません。



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2007年10月25日

今までの各宗教の教えと、神様を中心とした摂理観

今までの各宗教の教えというのは、他と区別するために選民思想的なものがあり、
それによって民族に自覚を持たせて導いてきた側面があるので、
その歴史観ゆえに宗教の統一がなされないというのがあると思います。

神道においても、神様から人間にいたる系図がありますが、それにどのような意味があるのかが不明確だし、日本民族の立場も不明確です。
聖書やコーランでも同様だと思います。

各宗教の歴史観には「選民がどのような理由でどう選ばれたのか?今の人類全体の状態はいかなるものか?」というような内容は説かれませんでした。

「神様が善悪を分立してそれを善を中心として1つにすることによって復帰する」
という観点で歴史を説いたのは統一原理だけだと思います。

そのように「神様を中心とした摂理観がある」というのが、統一原理が宗教を統一できる観点に果たす役割は大きいと思います。



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2007年10月20日

アッラーの100番目のもっとも偉大な名前 & イスラム教の天使はマライカ

> > 神魔精妖名辞典なんてものがありました。
> > http://myth.maji.asia/

> アッラーについては、
> 「イスラム教の聖典コーランでは99個の名前が与えられているが、
> 100番目のもっとも偉大な名前は人間には明かされていない。」
> なんて書いてありますね。
>
> これは、「父母」であるということが隠されているというわけでしょうね。


神魔精妖名辞典に、イスラム教では天使をマライカと呼ぶとされ、
下記のような説明がありました。

「イスラム教における天使を指す呼称。マライカは光から生まれるとされるが、通常の人間より優れるものの預言者には及ばないとされる。
主要なマライカとしてガブリエル、ミーカール、イスラーフィール、アズラーイールの四大天使がいる。」


天使は「通常の人間より優れるものの預言者には及ばない」

これは、堕落人間よりは上だが復帰された人間以上のものではないということであると思われ、的確な表現だと思いました。

ただ、天使長レベルはルーシェルも堕落前はエゼキエル書28章に
「貴方は知恵にみち、美のきわみである完全な印である。
あなたは神のそのエデンにあって、もろもろの宝石が、おおっていた。・・・あなたは造られた日から、貴方の中に悪が見出された日まではその行いが完全であった」
とあるように、神に従う天使長はかなり完全に近い神的な存在で侮れる存在ではないのでしょう。

そのような存在に認められるのが本来の人間の責任分担であることを思うと、それは容易なことではないと感じさせられます。



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2007年10月16日

天部の堕落と復帰

天部は、仏教では現世利益を与える神として民間の間では信奉されており、
その姿を示す話には非常に神話的要素があって実態を掴みにくいものがありますが、
天部の仏法を護る役割や仏法を信じる人間を守護する役割から見て、
天使に相当するものとの見方はほぼ妥当であると思います。

何らかの霊的な事実があってその一部の特徴が誇張されたり神話化されたり、あるいは教化に利用されたりしているのだと思います。

また、何度か書きましたが、仏教以前のバラモン教などのインドの神々は堕落した人間を主管して神の立場に立とうとした天使たちであると考えられますが、
その天使が釈迦によって教化されて天部となったのが実際に八部衆(天龍八部)と言われる天部たちだという説明が「天部の仏像辞典」に下記のように書かれています。

「・・もとは仏教以前の古代インドの神々でその性格も悪魔鬼神の類のものですが、釈尊に教化されてからは仏の眷属となり、仏法を守護する善神として再編成されました。・・」(天部の仏像辞典P.29)

また、帝釈天においては「人妻に横恋慕して姦淫に及び、それを呪詛されたために身に千の女陰を印された」(天部の仏像辞典P.25)
など、
そのまま、事実であるかはともかく人間の女性に情欲を懐いて堕落したりする様がかかれています。

このような記事は、聖書の
「主は自分たちの地位を護ろうとせず、そのおるべき所を捨て去った御使いたちを大いなる日のさばきのために、暗闇の中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも周りの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので・・・」
とあるのと共通点を持っています。

仏教のほうは聖書に比べるといくらか軽い話となっていますが、天部が女性問題を起こしている話は共通の内容があります。


このように、人間によって堕落したり、(本来の位置を)復帰したりする内容が見られるということは、天使、天部の共通事実です。



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2007年10月15日

Re:菩薩

> 如来と菩薩は真理を証して人々を救うという意味において同じであり、それを仏側の立場から見た場合は如来、人の立場から見た場合は菩薩、と説明されています。
>
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> 菩薩は菩提薩たの略である。その原語はbodhi-sattvaで、
> bodhi は「真理」「覚」「道」であり、
> sattva は「人」。


菩薩というのは、人間が仏様(絶対者)の相対であることを意味する名称なのですね。

菩提サッタの心である「菩提心」が、「本心」のことなのもよくわかりますね。


「古今東西を問わず、いかなる悪人であっても、悪を捨てて善に従おうとする本心だけは、だれでも共通にもっている。」
「善の主体であられる神が、神の善の目的を成就するための善の実体対象として、人間を創造なさったからで、たとえ堕落人間がサタンの業により、善の生活ができないようになってしまったとしても、
善を追求するその本心だけは、そのまま残っているからである。」
(原理講論より)


ここで思い浮かぶのは、歎異抄にある
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」
という言葉の真意です。

『本願他力の意趣』(歎異抄第三章)― 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや ―
http://plaza.rakuten.co.jp/fukashihojo/diary/200703080000/

ここで言う悪人とは、自分の罪深さを悟って如来の前に頭を垂れる人のことで、
絶対者の相対として立ちうるか否かを言っているわけですよね。

イエスキリストが山上の垂訓で、
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 」(マタイによる福音書5章3節)
と言われたのと同じ意味ですね。



posted by pocs at 13:53| Comment(0) | 神様と天使と人間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月14日

菩薩

次いで、菩薩について「仏教哲理」から引用します。

ここでは、菩薩とはもともとは釈尊の修行時代を意味しており、それから転じて、仏の前段階の求道者や仏の現世活動などを意味するようになったと説明されています。

また、「如来と菩薩とはもと違ったものではなく、ただ、同一のハタラキを、仏の位において如来といい、衆生(人)の位に立てて菩薩というと解せられてよい。」とし、

如来と菩薩は真理を証して人々を救うという意味において同じであり、それを仏側の立場から見た場合は如来、人の立場から見た場合は菩薩、と説明されています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
菩薩は菩提薩たの略である。その原語はbodhi-sattvaで、
bodhi は「真理」「覚」「道」であり、
sattva は「人」。

「仏法僧」の三宝において第二極に立つ仏が、のち法と融合して第一極に転位したので、仏に替って第二極に立ったものが菩薩であるとも解し得られる。

大乗仏教は般若の思想の上に建立された宗教であるが、般若の智慧というのは、西洋のIntelligenz(「分別」へ知性)とは異なり、対流をのみならず、おのれ自からをも空ずるところの無分別智であり、空そのものである。

対境のなかに立つ自からをも自に対する対流をも共に空じて涅槃に到るのは、自利行であるが、

涅槃は空境である故、空は空ずるおのれ自からをも空じて、さきに空じたる対境を新たなる面目を以て復興する。

これを円の理で言うならば、一たび絶対の円心に立った自己が、所与の個の自己をのみならず、対現において自己に対する一切の衆生をも改めて自己そのものとして立てる故、円心から再び円周に復帰するのは、個の自己の実現であると共に、じつに一切衆生の実現ともなるのである。

その際、自己は空の担い手であり空そのもののハタラキである故、円心から円周への復帰は空そのものの動座となる。

従って、自他を等しく立てるといっても、自己は力用(又は作き)として立つのであり、その力用により他者は存在として立てられるのである。
ここから菩薩は「利他を以て即ち自利と為す」ものとして、自からを自覚する。「自利利他同事」といふのが菩薩の境涯である。

(「仏教哲理」から引用)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



ラベル:菩薩
posted by pocs at 06:36| Comment(0) | 神様と天使と人間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月13日

涅槃とは絶対者があって初めて言える

>> 仏教は生成論(宇宙生命論)的なところがあるので、創造主とそれ以外があまり明確でないところがあると思うのです。

>> ある意味、仏(神)と同じと考える発想が悟りと解されているような点が無きにしも非ずではないでしょうか?


> 無きにしも非ずですね。
> そして、仏教徒といえども、ここをよく注意しないと、唯物論者に陥ってしまい、
> 釈尊の意図とはまったく反対の考えの持ち主になってしまいますね。
>
> 涅槃とは絶対者があって初めて言えることであって、
> 決して、個人の心の中だけの悟りの世界ではない、
> ということを明確に示しておく必要がありますね。


そうですね。私は仏教は神についてはそれに近いことをいっているけれど、「創造」が明確でないと感じます。

創造がわからないから、結果的に神様のことを主張しながらも、
法則が神様の根本属性なのか?慈悲や愛などの心情が根本属性なのか?
がわからなくなり、人間との区別があいまいとなり、
さらには物との区別もあいまいになり、
唯物論の論理に飲み込まれてしまいます。

人間が神様と一体となるべき存在で、物には神性が宿っている。
これは事実で、誰もが本来は悟りの境地に至れる。
これは事実なのですが、創造がはっきりしていないから、

結局堕落についても、説いていても、それは単なる性質の相対的変化にすぎず真理さえあれば自分の力だけで解決できるものになってしまうのです。

罪は、統一原理で見れば、関係性(神との親子関係の回復させ、サタンは天使の位置に戻り、神様を中心とした祝福による結婚を行う)法廷論的な回復であり、
その回復がなされてこそ、堕落性からも本当の意味で解放されていきます。

この点はキリストが来られなければ罪から解放されないと説いてきたキリスト教のほうが真理に近いと言えますが、
誰もがイエスキリストのような神の子になれるという確信はキリスト教にはないので、その点は仏教のほうが真理に近いと思います。

各宗教には真理性がありますが、説いている内容の中に重要な部分がどこか欠けていて偏っています。
統一原理はその偏りをなくし真理の全体像を見せるそのような内容であると思います。
幸いにして、各宗教の中にも真理の全体像につながるような教えがまったくないというわけではなくその片鱗を見せていると思いますので、そういったものを再評価していくのも必要だと思います。



posted by pocs at 06:54| Comment(0) | 神様と天使と人間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月12日

Re:Re:Re:仏身観2 相としての三身 報身はロゴス

> 付け加えれば、報身は、統一思想でいうところのロゴスに近いように思います。

私もそう感じました。

ただ、「向上門的には、智慧と功徳とを完成するためのあらゆる苦行の果報であり、向下門的には、人生の所欲の受用によって一切の1に示現する−であることとなる。」というところから
ここでは具体的には霊人体のことを説明しているのかもと感じました。

ですから、本質的にはロゴスを指し、論ずる方向性によって具体的なものはいくつかに分けられるのではと思いました。

仏教は生成論(宇宙生命論)的なところがあるので、創造主とそれ以外があまり明確でないところがあると思うのです。

そのため、論じている対象によって同じ言葉が別のものを指すというケースがあることが考えられるような気がします。
ある意味、仏(神)と同じと考える発想が悟りと解されているような点が無きにしも非ずではないでしょうか?

こういった観点から、仏からの展開が何を対象に論じるかで具体的な実体存在への展開には融通性があり、あいまいさがある、と考えても良いかと思うのですが、いかがでしょうか?



ラベル:仏身観
posted by pocs at 19:35| Comment(0) | 神様と天使と人間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする