2008年08月19日

Re:Re:Re:利己的な遺伝子 ドーキンス博士の意図

> 私は、擬人的な表現には、ドーキンス博士が神を否定しようとする動機が見え隠れしているような気がしてならないのです。
>
> 実際、擬人的にそのように言えるのは自己中心的な論理で世界は基本的には成り立っているのだという主張に思えます。


私もそうとは思います。

しかし、この擬人的な表現のワナにひっかかってしまっては相手の思う壺なのです。
この擬人的表現は、ドーキンス博士の考えたお堀のようなものです。
これまで何人もの人がこのお堀にひっかかって反論に失敗してきました。

ドーキンス博士は、本書の
http://www.amazon.co.jp/dp/4314010037/

三〇周年記念版への序文の中で、

「私は、遺伝子と個体という二つのレベルで擬人的表現を採用した。
遺伝子の人格化は本当のところ問題になるようなものではない。
なぜなら、まともな人間なら、DNA分子が意識的な人格をもつなどとはだれも考えないし、分別のある人間なら、そのような妄想を著者のせいにしたりはしないだろうからである。」
と述べています。

実際、この本のp.4には
「そこでまず私は、この本が何でないかを主張しておきたい。
私は進化にもとづいた道徳を主張しようというのではない。」
とあって、
これの補注(p.417)には、
「批評家たちはしばしば『利己的な遺伝子』を、
われわれがどう生きるべきかという原理として利己主義を宣伝するものであると誤解してきた!
ほかの人々は、たぶん、タイトルを読んだだけか、
最初の二ページ以上は読まなかったためだろうが、
利己性やその他の意地の悪いやり方は、
好むと好まざるにかかわらずわれわれ人間の本性の
逃れがたい一部であると、私が言っているというふうに考えている。」
とあります。

このように、遺伝子が利己的と形容するにふさわしいものであっても、
人間がそうだと言っているわけではない、
と再三にわたって述べており、
そのような批判をした人々は最初から退けられてしまっているわけです。

また、三〇周年記念版への序文には
「われわれの脳は自らの利己的な遺伝子にそむくことができる地点まで進化したのである。」
とまであるくらいです。

ですから、擬人的表現にひっかかってはいけません。

ドーキンス博士が、たとえば、
かまきりの雌が自分と交尾している雄の頭を食べてしまうとか、
生物世界のいかにも残忍な、
神を否定したくなるようなところに注視するのは、
このような事実から決して目をそむけてはならない、
これが現実なんだという、
生物学者特有の非情なまでの学者魂ということにしておきましょう。

このような観察結果から、
宿命的な「利己的」という言葉が出てきたのでしょうから。

もともと、動物には意識がないという視点に立てば、
かまきりが非情なわけではないのですけれどね。
それを非情だと感じるのは人間だからこそなんですけれどね。

ドーキンス博士が神様をどのように捉えているかといいますと、
ミームのひとつ、すなわち、観念という捉えかたです。

ドーキンス博士がこのように神を観念として捉えている限り、
博士が神や宗教を妄想だと言っても不思議ではありません。


> ですから、個体維持の論理と共生の論理、さらに創造目的観による、神は人間を神の子として創造され、人間の教育の為に万物世界は存在すると言う論理で、このような世界観を整理しないといけないと思います。
>
> 相対的授受相関対応関係は神の存在がなければ科学も宗教もこの世界も成り立たないと言うことを論理的に言うことが出来ます。
>
> では、それはどういう世界かという時に統一思想に基づく創造目的観が必要になると感じます。


まったくそうですね。
創造目的観にたって生物学の研究成果を見ていく見方を提示していく必要がありますね。



posted by pocs at 06:21| Comment(0) | 進化学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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