2008年03月08日

Re:仏教は人の悟りが中心?

> 人間から見るならば金剛を主体、胎臓を対象と見れますが、
> 大日如来から見るならば逆です。
>
> 悟りの知恵が大日如来から与えられるという哲学からするならば本来、大日経の 胎臓曼荼羅を主体とし、重要視すべきであったのではないでしょうか?
>
> 日本で空海を通じて両方が重んじられ両方があって理想的だとされたのは意義あることだと思います。


これはとても重要ですね。
弘法大師空海の存在意義がものすごく大きいことを認識する必要があるとともに、
空海が説いた教えを再度確認してみなければならないでしょう。

空海の著した「秘蔵記」には

「胎蔵とは理である、金剛とは智恵である。界とは身体であり、特に金剛を持する者の身体である。ところで身体はすなわちあつまりの意味である。」

「問う。もし人びとをもって胎蔵の金剛とすれば、金剛界の金剛と優劣があるか。
答える。胎蔵の金剛とは、仏法を守護する人びとで行為によって報いをうけた身であって仏身ではない。その報いの迷いの人びとをさとらせるために内部の随伴者の金剛を手にする者などを示現するのである。
(行為の)報いの金剛としての胎蔵の金剛ならば、金剛界の金剛たる仏の内証智(内なるさとりの智慧)とは優劣があるというべきである。」

「阿字とは毘盧遮那如来の理法身(理法を身体とする仏)の種子であり、ばん字とは智法身(智慧を身体とする仏)の種子である。
理法と智慧とは冥会してあい離れず、理法は智慧のはたらきを起こし、智慧は大悲を起こす。大悲は水に譬えられる。ばん字は水輪の種子である。それ故にまたばん字を智法身の種子とするのである。」

とあります。

胎蔵における人間は報いを受ける身であり仏身ではないとのことから、
ここの理解は一般的にとても誤解が生じやすいのだと思います。

「理法が智慧のはたらきを起こす」と空海は述べていますから、
理法が原因的であり、智慧が結果的であることは間違いありませんし、
毘盧遮那如来の理法がなければ智慧を得ることもできないのは明らかなことです。

金剛を心、胎蔵を体とみるのは明らかに間違っていますね。
金剛界の界が体を意味すると空海は述べていますから。



posted by pocs at 06:48| Comment(0) | 時空を超越した世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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