2007年09月27日

真如と慈悲と大日如来

統一思想要綱では真如を仏教の神に当たるものとして扱っている。また、真如と慈悲の関係を注(p795)では、如来から説明している。
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「如来とは「真如より来れる者」という意味であるが、妙法蓮華経には
「如来の室とは一切の衆生(生きとし生けるもの、特に人間を意味する)の中の大慈悲心是なり」(橋本早男・岩本裕訳「法華経」岩波書店=岩波文庫、1964年、(中)p.158)と書かれている。
したがって真如が慈悲の根本であるということができる。」

しかし、真如そのものからの説明でなく、仏教においては真如そのものは単に真理の根源である善悪を超えた冷たい存在というイメージだろう。
そこで、法身説法を説き、法身が人格的存在であることを証した大日経においては如来を統括し、すべての存在を誕生させる人格的存在として大日如来という表現方法が考え出されたのだろう。

大日如来は摩訶毘廬遮那如来とも呼ばれているが、これはサンスクリット語をそのまま音写したものであり、「マハー・ヴァイローチャナ」で「大きい光り輝くもの」という意味であり、「ヴァイローチャナ」はインド神話の太陽神(日天)の別名であるが、それより大きいとは太陽神を超えるものという意味となる。

中唐時代の中国密教の第一人者である善無毘三蔵(637〜735)とその弟子一行禅師が「大日経」を漢訳する際に「大日如来」としたことに由来する。(密教曼荼羅 新紀元社 p.28参考)

従来の仏教的人格神は多神教的な根源的存在から発生したものであり、
仏教徒の中には創造神の崇拝は多神教的な原始的宗教に見られる次元の低いものとみる傾向もあるが、

「大日如来」においては根源的な存在でありながら人格的な存在であることは、宇宙の根源としての創造神という考え方とほぼ同一と見ることができ、
統一思想における、絶対者は本性相と本形状の中和的主体であり、その根源的属性が心情である、と説く考えに近いということができます。

また、曼荼羅思想は多神教的偶像的な要素もみられるがそれすらも根源的な神様(大日如来)の信仰につなげ、すべてを堕落から復帰しようとする神様の慈悲深さを感じます。



posted by pocs at 06:55| Comment(0) | 神様と天使と人間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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